劇団は1回しか作れない

扉座の劇作家の横内さんが、前にテレビで


「ロレックスもベンツも持ってない。でも、俺は劇団を持っている。」


と言ったことがあった。
その時はピンと来なかった。
僕が劇団という存在の価値に気付いたのは、やっぱりここ2年〜3年ぐらいかもしれない。
それまではやりたいからやる。集まりたい奴が集まる。それが勝手に集団になって、劇団になる。
みたいな、ざっくりとしたものとしか考えてなかった。
でも、劇団っていうのは、いい年をした大人達がわざわざ集まって、演劇の練習をして、それをお客さんに見せるっていう。
コレ、かなり特殊なことだ。
ってことに気づいてから、劇団っていうのは奇跡だなと思うに至ったのである。



だいぶ前だが、ふざけたユニットを作ろうと思ったことがあった。
それは演劇ユニットで、フルタ丸とは別に演劇活動をするつもりでいた。
今だからこそ言うが、フルタ丸での表現に行き詰まりを感じていたのだ。
なんか窮屈っていうか。嫌になってた。
もっと好き勝手にやりたいことを突き詰めていたはずが、そうではなくなってしまってた。
それは道徳でもなければ、誰が正解ってわけでもないんだけど、気持ち悪いものがあった。
なんかこりゃダメだなと思っていた時期。
だから、そういったしがらみのないユニットを作ろうと思った。


そのメンバーに友人の影山くんを誘った時だ。
あっさりと真理を突かれてしまった。


「好きなことがやれなくなったら、それは劇団じゃない。本当にやりたいことをやる場所は一つでいい。」


みたいなことを言われて、そんとき、下北沢の小汚い店で焼き鳥食ってたんだけど、
気付かせてもらえて本当に良かったなと思った。


そっからだ。
またフルタ丸が楽しくなってきたのは、そこから。
自分の受け皿はフルタ丸だけになった。
だから、僕は頑固になった。
譲れなくなったし曲げたくなくなった。
すまんな。でも、しょうがないんだ。譲れないものは譲りたくないんだわ。


フルタ丸辞めたら、劇団を0からはもう作れないと思う。
僕の演劇活動も、そこでおしまいだ。ジ・エンド。
本当の意味で、劇団ってのは人生で1回しか作れない気がする。
だから価値がある。


明日で解散する東京事変の「新しい文明開化」

椎名林檎の色気が静かに爆発している。
ミュージシャンとしての、メスとしての色気。