誰のストーリー

桜が散っている様は、
満開の様よりも綺麗である。


人間もそうかもしれない。


咲き誇るごとく無敵な時よりも、
頂上から少し下り始めた、少し弱り始めた、少し崩れ始めた瞬間、
そんな散り際が一番面白いし、一番美しい。


でも、いつかは散る定め。
散るまでにどれぐらいかかるのかっていう違いだけだ。
長く咲くのも結構、ゆっくり散るのも結構。


咲かせないことには散りようもない。


今日は、娘に桜を見せるために外に出た。
0歳8か月で見る桜。
家の近所に桜の木がトンネルみたいに続く通りがある。
行ってみたら、雪かと思うほどに花弁が吹雪いていた。
道路に溜まったフレッシュな花弁を手ですくって、花吹雪のように空に舞いあげる。
すると、見事に舞いあがった。
興奮して、娘を見たが、
娘はてんで見ちゃいなかった。
そんなものだ。
花より団子。


娘には娘の物語が進行している。
主人公は、もちろん娘だ。
娘のアングルでストーリーが進んでいるわけだ。
もちろん、僕は僕の視点でストーリーが進行しているし、親父は親父のストーリーで60年目を生きているだろう。
皆のストーリーがたまに交差する。
交差する時、僕は自分のストーリーで、自分が主人公として生きてきた。
当たり前だ。
娘が生まれたときは、当然「僕の娘が生まれた」そう思った。


でも、最近はちょっと違う。


娘の視点で娘のストーリーを見ようとするときがある。
娘の視点でこれからを考えようとするときがある。
娘の視点でフルタジュンを見ていることがある。


まだ上手く整理できないけど、そうなんだよ、なぜか。