彼女のグラビアは買っていない
何者かになろうとして踏ん張って生きても、
何者かになれずに終わる人生ってのもある。
リアルタイムで、僕はいかそーめんを食いながら書いている。
いかそーめんを食いながらの奴なんかに言われたくない人は読まないほうがいいでしょう。
という広末涼子のモノマネをしている芸人アイドルがいる。
もう結構有名人だと思うが、
僕は応援していたはずだった。
もちろん、広末が好きだから好きになったわけだ。
動機は不純。不純じゃない動機は存在しない。全部何かしら不純なのさ。
彼女が出始めた頃、彼女個人がまとっていた空気に、顔マネ以上の広末を感じたのだった。
この際「広末」は固有名詞ではない。もはや「一種の状態」だと考えてほしい。
それは「ヒロスエ感」と言い換えられるかもしれない。
この点は、広末研究家である山下隼太郎くんとも同意見であった。
おかもとまりには、あの頃の広末が持っていた「ヒロスエ感」があったのだ。
そんなおかもとまりが、最近、バラエティ番組で「かわいい女芸人」の代表であるがごとくふるまっている。
それを求められる企画であることは重々承知合点の助で見ているのだが、
僕は落胆している。
「かわいいーかわいいーー」と放射能のように浴びせられるうちに、何かがマヒしたのか、
「えーー私ーーそんなことないですよーーー」感がにじみ出るようになった。
僕は悔しい。
広末涼子(本人)が20歳前後から離婚ぐらいまでの間に辿った「建前おすまし顔ポーズ」というのがあるが、
それを垣間見せているのだから。
そこさえも似てしまったというのか。
いや、あれは似せているんじゃない。
絶対にそうゆうスパイラルにハマっているだけのことだ。(と、信じたい)
あのポーズの先に未来はない(広末涼子は離婚と同時に戻ってこられた=奇跡の生還)。
そう僕は断言できる。
今こそ、周りがドン引きするようなモノマネとか連発して、もう一回芸人であることを世に痛烈にアピールするべきなんだ。
この僕の声がおかもとまりに届くことはない。近しき人がいたら、誰か代わりに届けてほしい。
何者かになろうとして踏ん張って生きても、
何者かになれずに終わる人生ってのもある。
でも、予期せぬ何者かになれてしまっていたという人生もある。